2019年(平成31年)4月2日(火)に第8回目のTeam御朱印による神社仏閣巡りの記録です。平成年号では最後のTeam御朱印の神社仏閣巡りです。
今回のメインは<蓮華王院本堂(通称:三十三間堂)国宝>と<東山慈照寺(通称:銀閣寺)>の2か所で場所が少し離れていますが、近隣の神社仏閣にも時間の許す限り寄るつもりで、先ずは最寄駅で集合し京阪七条駅へ向かいます。
蓮華王院本堂(通称:三十三間堂)国宝
三十三間堂
正式名称は<蓮華王院本堂>でその本堂が通称<三十三間堂>と呼ばれています。 この三十三間堂(国宝)は、 平安後期の1165年に後白河上皇が創建しましたが、鎌倉期に入り1249年焼失し、1266年に再建されたものが現存するお堂です。地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの大きなお堂で、この120メートルの本堂内陣の柱間が33あり、建物外部から見える柱間は35あります。また「三十三」は観音菩薩の変化身三十三身から来ている数です。
三十三間堂北側 三十三間堂 三十三間堂
三十三間堂 三十三間堂
三十三間堂 三十三間堂 三十三間堂
堂内に入る前に、三十三間堂の周囲を一周しました。南端には後述しますが太閤塀があります。鐘楼も南、本堂に向かって左奥にあります。
太閤塀(三十三間堂の敷地側) 太閤塀(三十三間堂の敷地側)
三十三間堂鐘楼 三十三間堂内の桜
堂内には中央に鎮座する中尊を中心に左右に各500体(国宝)あり、合計1,001体がご本尊です。また、1,001体のご本尊の前と中尊の四方(四天王)には28体の仏像(国宝)があり、今回は通常は各地の国立博物館に展示されている仏像も帰ってきており28体全てを見ることが出来ました。さらに、その左右には風神雷神像が一段高い雲座にあります。中尊の背中側にも一体あります。
残念ながら堂内は写真撮影禁止ですので堂内の画像はありません。
この地には、元々藤原為光が創設した<法住寺>があり、その後、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があり、その広大な敷地の一角に<三十三間堂>が建てられました。その後時代が下り桃山時代になると豊臣秀吉が<方広寺(東山大仏)>の造営により、<三十三間堂>もその境内に含まれました。<蓮華王院南大門>はこの<方広寺>の南門です。この門から北方向を覗くと<方広寺大仏殿>にぶつかる道筋が見えます。実際には今は京都博物館のある七条通で道は途切れています。
養源院
<三十三間堂>の東向かいにあり、1594年に淀君が、父浅井長政、祖父浅井久政の法要に際して豊臣秀吉に頼んで創建された浅井家の菩提寺で、元来天台宗でしたが、第二次大戦後に浄土真宗遺迎院派に改宗しています。
養源院 養源院 養源院鐘楼
<伏見城の戦い>で将兵が自刃した廊下の板の間を供養のために天井にしたもので生々しい血痕が残る<血天井>やこの将兵らの霊を供養するために<俵屋宗達>が描いた<襖絵><杉戸絵>などがあります。庭園は<小堀遠州>の作庭です。
養源院
こちらでは、解説付きで院内を案内してもらえます。俵屋宗達作の象を描いた杉戸絵、襖絵も目と鼻の先で本物を鑑賞することができますし、襖や杉戸に書かれている絵の配置についても意味があることなど説明を聞き勉強になりました。ここでは敢えて書きませんので一度足を運んでみたらどうでしょうか?行ってみる値打ちは十二分にあると思います。
血天井も立つ位置によって明確に見ることができ、自害した武将か将兵かは判りませんが、くっきりと浮かび上がって見ることができます。三十三間堂のすぐ横ですから行ってみてください。
法住寺
前述のように藤原為光が989年に創設した天台宗のお寺ですが、1032年に焼失しました。1161年に後白河上皇が院の御所として法住寺殿が作られました。
法住寺 法住寺庭園 法住寺(旧御領正門)
蓮華王院南大門・太閤塀
<蓮華王院南大門(重要文化財)>と呼ばれていますが、この門は豊臣秀吉が<方広寺(東山大仏)>を造営した際に、<太閤塀(重要文化財)>など方広寺造営の一環として整備され、<南大門>も豊臣秀頼の手で造営されたものです。
蓮華王院南大門(南側) 蓮華王院南大門(北側)
太閤塀
余談ですが、現在の東寺の南大門は方広寺西門を明治になって移築されたものです。
土佐志士寓居跡
南大門のすぐ近くには、幕末期に坂本龍馬ら土佐藩志士がこの辺りに住んでいたことから碑が建てられています。
土佐藩士寓居跡 土佐藩士寓居跡
智積院
智積院総門
<智積院(ちしゃくいん)>は真言宗智山派の総本山で、弘法大師空海が835年に高野山に入定し開祖したのち、1140年に根来山にその修業の場を移しましたが、豊臣秀吉と対立し1585年に根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その後、1598年にこの地に再興の礎を築き、1601年になって徳川家康から豊国神社境内の土地を与えられて本格的に再興されたものです。
智積院 智積院 智積院 智積院金堂 智積院明王殿
宝物館には長谷川等伯一門による金碧障壁画などが所蔵されていますが、今回は入りませんでした。
妙法院門跡
妙法院
貴族、皇族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を<門跡>と呼び、青蓮院、三千院と合わせて<天台三門跡>と言われる名門寺院です。秀吉が方広寺(大仏経堂)で執り行った<千僧供養>の際に千人分の食事を用意するのに使われた場所が<妙法院庫裏(国宝)>と言われています。
特別公開がある期間以外は建物内は非公開ですが、境内の一部には自由に入ることができ、本堂の前まで行くことができます。
妙法院 妙法院
方広寺
1586年に豊臣秀吉によって創建された天台宗の寺院で、その後、焼失した東大寺大仏に代わる大仏(東山大仏)を紆余曲折を経てこの地に1595年に完成させました。完成した大仏は東大寺の大仏より大きい19メートルの高さがあり、造営時に使われた釘などは刀狩で集めた武器を再利用したものらしいです。しかし、翌年に発生した慶長伏見地震によって倒壊してしまいました。
秀吉の没後、豊臣秀頼が再建に着手し1611年に完成しましたが、大仏開眼供養のために作られた梵鐘に刻まれた銘文に<国家安康><君臣豊楽> の文言があり、家康を分断し、豊臣を君主とするとして家康の怒りを買い、開眼供養が延期になった事件<方広寺鐘銘事件> があり、この事件を原因に<大坂冬の陣>が勃発し、翌年の<大坂夏の陣>で豊臣家は滅んでしまいました。
方広寺梵鐘 方広寺梵鐘
<豊国神社>に行ってから、この<方広寺>に来る予定でしたが、妙法院からわき道を入ってくるとそのいわくつきの梵鐘の前に出てきました。
方広寺梵鐘
方広寺梵鐘 方広寺梵鐘
豊国神社
豊国神社
<豊国大明神>の神号を与えられた<豊臣秀吉>を祭る神社ですが、豊臣家が滅亡した際に徳川家によって取り壊されました。その後、明治天皇の勅命によって再興(1880年)されたのが現存する社殿です。
豊国神社 豊国神社
方広寺に隣接して<豊国神社>はあり、正面からではなく横から入ってきました。帰りに正面から出て銀閣寺に向かうために七条駅に戻りました。
豊国神社
ちょうどお昼時でもあるの食事をしようと思いましたが、七条駅に戻るまでにこれっといったお店も見つからなかったので、出町柳で食べることにしました。電車で移動中に<鴨町らーめん>と言うお店を見つけましたが、10分待ちの情報も同時に。10分くらいなら並んでもいいと向かったところ、タイミングよくカウンターだけのお店なのに3人横並びで席が空いていました。待っている間にふと外を見ると数人が並んで待っています。本当にタイミングが良かったんだと思います。寒かったのもありましたが、ここのラーメンは豚骨ですが、あっさりしていて美味しかったですよ。スープ飲み干してしまいました。場所的には、銀閣寺に向かうバス停(出町柳駅前)の道路を挟んでほぼ真向かいです。
鴨町らーめん 出町柳バス停
東山慈照寺(通称:銀閣寺)
出町柳からバスに乗り銀閣寺道バス停で下車。目の前には<大文字山>が見えます。ほどなくすると<哲学の道>が始まり、途中で銀閣寺への参道と分かれます。
大文字山 哲学の道 哲学の道
銀閣寺参道 銀閣寺
<銀閣寺>として知られていますが、正式名称は<東山慈照寺>という臨済宗相国寺派の寺院です。相国寺の塔頭(たっちゅう)寺院のひとつで<金閣寺>も同様です。元々は室町幕府第8代将軍足利義政が隠居生活をおくるために作り始めた山荘東山殿でしたが、完成前年に没したために寺に改め、義政の法号慈照院から名を取り慈照寺と名づけられました。
東山慈照寺:銀閣寺
半数くらいはインバウンドだと思いますが、多くの観光客で賑わっていました。
銀閣寺 銀閣寺総門
順路に従って進んでいくと国宝の<東求堂>があり、本堂との間には<銀閣寺形手水鉢>と言うのもありました。
銀閣寺形手水鉢 東求堂(国宝)
この辺りから見える銀閣寺と展望所の手前には<お茶の井(義政公お茶用の湧水)>があります。
銀閣寺 お茶の井
展望所からは当然で<銀閣寺>を俯瞰することができます。
銀閣寺
当初予定では、銀閣寺で今回は終わるはずでしたが、直前に急遽4月7日まで特別拝観をしている<霊鑑寺>に行くことになり、銀閣寺まで早めのスケジュールで回ってきたので拝観時間のリミットである16時までに十分に間に合うことができます。
霊鑑寺
霊鑑寺 霊鑑寺 霊鑑寺
1654年後水尾天皇の皇女・多利宮を開基として創建された尼門跡寺院で、<谷の御所>とも呼ばれています。通常は非公開ですが、この日は春の特別拝観期間中にあり樹齢400年と言われる日光椿(じっこうつばき)をはじめとして見ごろの椿を見ることが出来ました。30種ほどの椿が境内の至る所に咲いていますが、品種の違いで見頃のものもあれば、見頃が終わったもの、見頃までは時間のあるもの様々ですが、花には全く疎い身にとっては、椿ってこんなに品種があるんだと驚かせられました。
門をくぐってすぐに拝観料を払うと、そのすぐ先に椿の花がずらっと並んでました。これは、庭内にある椿の花のほぼ全種が飾られているのです。色も違えば大きさも異なり椿の種類の多さに驚かされました。
霊鑑寺
庭園に入る門を潜るとすぐに、京都市指定の天然記念物になっている<日光(じっこう)椿>が目に入ります。
霊鑑寺 日光椿
この他、名前も初めて聞く種類のものばかりでしたが一部写真に収めてきました。
王冠 衣笠 衣笠 ホワイトナン ホワイトナン 金花茶 舞鶴 香妃 港の曙 菱唐糸 菱唐糸
参拝客が作ったものだと思いますが、こんなオブジェもありました。
見ごたえがあり、前半の拝観時間を短縮しながら来たかいがりました。秋にも特別拝観の日がありますが、その時は紅葉のようです。この春の特別拝観は見る値打ちあると思います。
今回はこの<霊鑑寺>が最後で帰途につきました。